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三原郷 南房総市和田町の平安時代の生活 [中世の豪族 房総 眞田氏(佐奈田)]

千葉県南房総市和田町周辺、いわゆる三原郷は、
平安時代に、相模国大住郡岡崎郷の佐奈田村(現:平塚市真田)から渡ってきた自分達の先祖が、
土豪・開拓領主の一族として長く土着した地なのですが、
その居着いた時代、平安時代の三原郷の生活はどんなだったんでしょうね
よくそんなことを現実逃避でボーっと考えるのですが、
その答えの参考になる記述が、南房総資源辞典にありましたので、抜粋させていただきました

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------以下抜粋

【 平安時代の安房国の生活 】

一 和田町の農業 

和田町で一〇〇〇年前の海岸線と推定できる所は、花園から仁我浦までと、
真浦から下三原までは旧国道の線、海発は宅地のある段丘の下までは海であったと思われます。
房総半島の南端は、有史以来特に大地震の際は大きな隆起を続けています。
特に、元禄一六年(一七〇三)、大正一二年(一九二三)の大地震は隆起が著しく、
安房各地の古文書には「元禄地震の後海岸が干上がって砂浜が広がり、
やがてそこが開墾されて新田新畑が作られた」と記されています。
 和田町もこの地震の前までは、前記の箇所までは波が打ち寄せていたことが十分に考えられ、
したがってこの箇所は農作物が豊富に収穫され、大きな集落があったとは思えません。
こう考えると、古代奈良平安時代の集落や水田のあった地域は、
長者川・三原川・温石川の中流以上に住民の生活地域があったことが想像されます。
それらの所で川沿いの低地では稲を、台地状の傾斜面では粟などの雑穀を作っていたと思います。

二 平安時代の人口 

平安時代の安房国の等級は「中国(中等度の国)」と位置づけられ、
「令義解」職員令によって国司以下六名の国の役人によって治められていました。
中国の国司は六位の者が任命されることになっていましたが、安房国司一覧によりますと五位の者が圧倒的に多く、
晩年の和気清麻呂も従五位下で安房守に任命されています。
安房国には朝廷とゆかりのある忌部氏の安房神社や神郡(安房郡房荘)
のあることなど重要な国として扱われていたことによるものと思われます。
 中国と位置づけられてきた安房国は、面積・人口とも実に小国であり、
(淡路国より小)奈良時代上総国から切り離して安房国を作らねばならなかったのか、と思います。
安房が遠流六国の一とされたことや、地理的に房総半島南端の袋小路で、上総との境は清澄山系が東西に走って海に、
延びいずれも断崖絶壁となって隔てられた交通困難なこと、
地形が入り組んで団子山が多いことなど行政には面倒な国だったと考えられます。
それでいて人口密度は関東では一番高く、開田率も高かったことは、安房国が気候風土に恵まれて、
住みよい土地であったからだと考えられます。
開田率五四・八パーセントということは、海岸が河(川)口に沿って内陸に入り込んでいて、
前記震災時の土地隆起によるものと考えられます。
 そして、この和田町に住んでいた人口は、およそ三〇〇〇人~二五〇〇人ぐらいと推定されます。
 律令制が完成した奈良期の大宝二年(七〇三)からみると一〇〇年後の平安初期にはかなり開墾か進み、
人口もふえていたと思われます。平安時代初期になると班田制による公地公民制も崩れ私領(荘園)が増えました。
 これは奈良時代に入って鉄製の農具が出現各国々司は競ってその製作を奨励したので、
開墾も進み平安時代になると、公田や荘園内の農民も鉄製の農具や、
自分の土地さえ持つようになって、小地主が出現しました。
この小地主のことを「田堵1=タト」又は「田刀」と呼びました。
 田堵の開墾した田には、持ち主の名がつけられて、名田と言い、その持主を名主といいました。
名田は税の対象となってきびしい租税のとりたてにあいますと、
不輸不入権を持つ強力な荘園主に名義を売り、自分は単なる耕作人となる者も出てきました。
田堵はこのように班田と違って田の所有権を持つため、自分から進んで農業技術の改善に努力し、
一段と各地の生産力が高まり、特産物が決められるようになりました。

 水田耕作には牛馬を使ったり、灰や堆肥=厩肥を肥料として使い始めました。
稔りの秋には鳴子や、案山子を使ったり、刈り取った稲を乾燥させるために、
木を組み合せ、稲の掛け干しをするようにさえなりました。
 平安時代には国衙附近で、市が開かれ物資の交換が行われました。
これにならって郡衙の近くでも市が立つようになり、更に数か村単位に市場が立つようになり、
和田町では大原市の起こりは、この市場が先駆であったと考えられます。
和田の海の幸と、三原の山野の幸の交換には最も適したところで、古代の様相が想像されます。
平安中期以降は輸入された宋銭が市場を通じて使用が広まったと考えられます。

三 平安時代の農民の暮らし

 この時代の安房国の人々の暮らし向き(衣・食・住)はどうだったでしょうか。

(一) 衣 服
 平安時代初期の男子は「狩衣」と言う丸首の上衣をつけていましたが、
後期になると「直垂」と短い小袴を着用し、そのすそをひもで結び動きやすくしてあり、
働くときや、山野を歩き回るときは、脚絆をつけました。
頭には「烏帽子」を着けましたが、公家と違って、よくもみほぐして柔らかにして着用しました。
女子は男子同様前で合せる今様の着物をつけ、短い布を腰にまいて平服としました。

(二) 食 料
 この時代の人々は、どんなものを食べていたのか。
現在主食の米と洋食系のものを除いたものといえそうで、
調味料として塩、酢、醤油、前汁、飴、蜂蜜、甘柿の粉、酒、甘酒、などが使われました。
 主食としては、ひめ粥、かたしきの飯、強飯、かしき飯、油飯、ほしい、かれい、などがありました。
主食の材料は、米、粟などでしたが天候に左右されることの少ない麦、そば、きび、ひえ、などの植栽が奨励されました。
 料理の材料の種類は『延喜式』や『和名抄』をみると、
そ菜が六〇種、海藻類が一八種、魚類が四九種にも及んでいて海山の幸に恵まれた房州では、
変化に富んだ食生活をしていたことが伺われます。

(三) 住 居
 平安後期の絵図などを見ますと、京都など町方の居宅は二間の三間の広さで、
床は板敷、壁は土壁、柱は掘立、屋根は板ぶきになっています。
千倉町健田郷跡発掘によって似かよったような屋形を思わせる、
方形の住居跡が多く見られたといわれます。
 時代が多少下ると思われますが、素材はもっと粗末で屋根はほとんど茅ぶきであったと思われます。
この屋根造りは一人や二人ではできないので「牧」又は「杣」という共有の茅山、杣山から刈り取って来て、
ふき替えしたものと思われます。
床の板敷は一般にはなく、茅かわら、ほし草をしきつめ、筵を敷いただけだったと考えられます。
 什器類は一般的には土釜土鍋の土焼きものが多かったようです。
金属製品の什器はまだ貴族や土豪社会にしか流通利用されていなかったようです。

------ここまで抜粋

その他にも、こんなのお薦め!
●和田町史 縄文時代の遺跡と出土遺物
●和田町史 弥生時代の概観
●和田町史 古墳時代の概観

南房総資源辞典は、URLが変わったことで、
前まで入っていた郷土史などがまだ十分に反映されていないようですが、
今の段階でも中々読ませる内容が多く、読んでて楽しいです(^ω^)

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安房国 朝夷郡 三原郷 (現:南房総市和田町と鴨川市江見 周辺)
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