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日本の教育現場が変わった?【転載】 [日本の隠された歴史]

以下、まるっと転載

転載元:言霊と革命を超えて
http://shinjihi.tumblr.com/post/58201400516/6#notes

8月 14, 2013

公立に通う小6息子が、平和学習で、日本もアメリカ任せでただ守ってもらうのでなく 

軍備をしっかりしていかなくては平和を維持出来なくなる時が来るかも知れない。 

すでに竹島は韓国に占領されているし、尖閣も同じようになれば、近くの沖縄も危ない。 

どんどん占領されて、その時に戦争反対って旗持って叫んでても誰も助けてくれない。 

だから軍備は必要であって、自衛隊は戦争をするためにあるんじゃない。 

日本の国土と国民を守るために自衛隊があり、弱ければ平和に暮らせなくなるかも知れない。 

このことについて、家庭で話し合ったり、ネットで調べてみて下さい。 

て、言われたそうだ。 


保護者へのプリントには、夏休みの間に平和について話し合って下さい。学校からは特定の思想を押し付けたり、ご家庭での考えを否定することもしません。 

ってあって、たまげたよ。 

団塊教師がいなくなったから、平和教育も随分変わってきてるみたい。 


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「玉音放送を現代語訳してみた」 【転載】 [日本の隠された歴史]

明日8月15日は、第二次世界大戦の終戦の日です

そんな中、終戦を日本国中、そして世界中に伝えた昭和の天皇陛下の玉音放送を現代語訳したものがありましたので、そっくり転載させていただきます

私個人的には「日本人は、もっと誇り高く生きていい」と、常々思っております

以下転載

転載元:shinjihiのブログ
20130814104914.jpg
世界の情勢と日本の現状をよくよく検討した結果、ありえないと思われる方法をあえてとることにより、この状況を収拾したい。常に私に忠実であるあなたがた日本臣民の皆さんに、今から私の決断を伝えよう。
私は日本政府担当者に米国、英国、中国、ソビエト連邦の4カ国に対して、日本が(ポツダム)共同宣言を受け入れると伝えることを指示した。 そもそも私たち日本国民が穏やかで安心な暮らしができ、世界全体と繁栄の喜びを共有することは、歴代の天皇が代々受け継いで守ってきた教えであり、私自身もその教えを非常に大事なことと考えてきた。
最初に米英2カ国に宣戦布告した理由も日本の自立とアジアの安定を願う気持ちからであり、ほかの国の主権を侵したり、その領土を侵したりすることが、私の目指すところであったわけではない。
けれども戦争はすでに4年も続いており、我らが陸海軍人たちの勇敢な戦いぶりや行政府の役人らの一心不乱の働きぶり、そして1億人の庶民の奉公、それぞれが最善を尽くしたにも関わらず、戦況は必ずしも好転せず、世界情勢を見るに、日本に有利とはとても言えない状況である。
その上、敵は残虐な新型爆弾を使用して多くの罪のない者たちを殺傷し、その被害の及ぶ範囲は、測ることもできないほどに広がっている。もしもこれ以上戦争を続ければ、最後には我が日本民族の滅亡にもつながりかねない状況であり、 ひいては人類の文明すべてを破壊してしまいかねない。
そのようなことになれば、私はどのようにして1億人の民を守り、歴代天皇の霊に顔向けすることができようか。これが私が政府担当者に対し、共同宣言に応じよと指示した理由である。
私は、アジアを(西欧列強から)開放するために日本に協力してくれた友好国にたいして大変申し訳なく思う。また、日本国民であって戦地で命を失った者、職場で命を落とし、悔しくも天命をまっとうできなかった者、そしてその遺族のことを考えると、心も体も引き裂かれんばかりの思いがする。戦争で傷つき、戦災被害にあって家や仕事を失った者たちの暮らしについても、非常に心配に思っている。
この後、日本が受けるであろう苦難は言うまでもなく尋常なものではないであろう。みなさん臣民の悔しい思いも、私はよくよくそれを分かっている。
けれども私は時代の運命の導きにそって、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、これからもずっと続いていく未来のために、平和への扉を開きたい。
私はこうやって日本の国の形を守ることができたのだから忠誠心が高く善良な臣民の真心を信頼し、常にあなたがた臣民とともにある。
感情の激するがままに事件を起こしたり、もしくは仲間同士が争って世の中を乱したり、そのために道を誤って世界からの信頼を失うようなことは、最も戒めたいことである。

何とか国全体が1つとなり、子孫にまでその思いを伝え、神国日本の不滅を信じ、任務はとても重く、行く道は非常に遠いことを覚悟して、将来の建設に向けて総力を結集し、道義を守り志と規律を強く持って、 日本の力を最大に発揮することを誓い、世界の先進国に遅れをとらずに進むのだという決意を持とうではないか。
私の臣民たちよ、ぜひともこの私の意思をよくよく理解してもらいたい。


●玉音放送の動画

終戦の詔勅 (玉音放送)


昭和天皇の玉音放送 高音質バージョン



●国家 君が代 動画

国歌独唱/第82回選抜高校野球大会


日米国歌斉唱 小柳ゆき


竹内力 君が代


君が代 秋川雅史


Kiyoshiro Imawano - Kimigayo ~ 忌野清志郎 - 君が代

GACKT 国歌独唱-2012 03 29 メジャ―リ―グ開幕戦-



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武士と忠義のお話 【転載】 [日本の隠された歴史]

20130106202458fc8.jpg

武士と忠義のお話
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1758.html
ねずさんの ひとりごと」より転載


江戸時代の武士にとって、最大級の賛辞が、「まるで鎌倉武士のようだ」というものでした。

どういうことかというと、実は鎌倉武士というのは、小領主たちであったからです。
つまり、戦国武者や、江戸武士、あるいは大昔の防人(さきもり)などとは違った存在です。

もともと古代の律令日本においては、武人というのは、兵のことで、今で行ったら自衛隊や警察などのことを指します。


さて、もともとは日本は、武器を手にして戦うという文化がなかった国です。
実際、2万年近く続いた縄文期の遺跡からは、対人用の武器に相当する遺物が、いまだにひとつも発見されていません。「ひとつも」です。

これは世界史的、人類史上的にみて、もすごいことです。
日本には何々貝塚と称されるものなど、縄文時代の遺跡は全国に数万カ所あるけれど、いまだに、ただのひとつも対人用兵器としての武器が発見されていない。
そのかわり、灌漑農業の跡などは、多数発見されています。
要するに日本人というのは、二万年の昔から、戦って奪ったり殺したりすることより、互いに助け合い、協力しあって、生産することを是としてきた民族だという、これがなによりの証拠です。

ところがそんな日本に、いまから三千年くらい前、大きな変化が起こります。
この頃の支那は、戦国時代でした。
まさに民族同士で殺し合いや殺戮がさかんに行われていた時代です。
この連中が日本にも流れてきた。

誰も武器を持たないで、みんなで助け合って生きている国に、武器を持ったあくどい連中がやってくる。
最近の日本も武器の所持は禁止で、誰も武器など携帯しませんが、その日本に、サブマシンガンを持った悪党が登場したらどうなるでしょうか。
警察さえない、あっても武器をもたないとすれば、もうやりたい放題です。
そして現実に、そういうシチューションで、インカの帝国は完膚なきまでに滅んでなくなってしまいました。

縄文時代後期、大陸で武器を手にして戦っていた者の一部が、日本に流れてきました。
日本人は武器を持たない。
彼らは武器を持っている。

そこで何が起こったか。
みなさんは、縄文式土器、弥生式土器ということを学校で習ったと思います。
縄文式土器がたいへん装飾性豊かあるのに対し、弥生式土器はきわめて簡素です。
そして弥生時代になると、突然、武器を手にした人形の焼き物なども登場しています。

要するに、漢鏡や金印のような平和な権威の象徴だけが日本に来たのではなくて、大陸から、人殺しや窃盗犯、粗暴犯たちが、武器を手にして日本に流れてきたのです。

彼らは、日本でありとあらゆる犯罪行為をしでかしたことでしょう。
火付け、盗賊、暴行、傷害、殺人、それらは日本人にとっては今も昔も犯罪行為です。
けれど大陸の獣人たちにとっては、強い者が弱い者から奪うのは、あたりまえの常識です。

獣人たちは暴れ回りました。
最初のうちは、日本人はただ被害を受ける一方だったことでしょう。
けれど、さしもの日本人も、いつまでもやられっぱなしというわけにはいきません。

自分たちも武器を習い、さらに持ち前の研究熱心さで、ついには武器を自作し、その使い方まで一生懸命練習して修練し、獣人たちなどよりもはるかに優れた武器を持ち、上手に使う方法までも開発します。
要するに自衛のために日本人が立ち上がった。
弥生時代のはじまりです。

そして人々は、助け合い、ひとつにまとまって、大和朝廷を築きました。
そして太宰府を置き、そこに防人(さきもり)を配置します。
これがようするに、これが古代の武人です。
古代の武人というのは、いまでいう兵のことを指すのです。

そして遣隋使、遣唐使のあと、日本は大陸との国交を絶ちます。
なぜ断ったのか。
簡単です。
百害あって一利無しだったからです。

経済ベースで言えば、交易は儲かります。
支那の絹糸は、日本に持ち帰れば20倍の高値で売れたし、日本で産出された銅は支那で5倍、時代はすこしあとにになりますが、日本刀など30倍くらいの高値で支那で飛ぶように売れています。
大陸との交易は、経済的には巨富をもたらしたのです。

けれど、百害あって一利なしだから鎖国したのです。
なぜか。
儲かるだけなら良いのです。
物品にあわせて、ろくでもない支那人や朝鮮人が日本にはいってくる。
そして窃盗、強盗、殺人、強姦、挙げ句が人食いまでやってのける。

たとえ交易が、経済的な豊かさをもたらすとしても、治安が悪化したら、民の生活の安心を損ねます。
何も泥棒や強姦被害に遭ってまで、金儲けなどする必要はない。
そんなことくらいなら、畑でも耕して大根や菜っ葉でも作っていた方が、はるかに安心です。
なにしろ人は、食えれば生きていけるのです。
贅沢をするのではなく、質素でもいいから安心して幸せに暮らしたい。
あたりまえの感情だろうと思います。

そして日本は、支那、朝鮮との国交を絶つことによって、和心豊かでミヤビな平安文化を花開かせました。
紫式部の源氏物語など、世界最古の女流文学が誕生できたのも、女性が安心して生きられる鎖国日本という、平和な世の中だったからこそです。
そしてこの平安期に、古代の兵とは異なる、中世の武士が日本に誕生します。

世の中が平和になると、民衆は、少しでも生活を豊かにしようと、荒れ地を開墾し、田畑をひらきます。

これはひとりでは、とてもできるものではありません。
なぜなら、土地を開発し、水路を引くといった土木作業は、たいへん多くの労働力を必要とするからです。
さらに農業に書かせないのが、利水です。
上流の村の人たちが、勝手に川の水をせき止めてしまったら、下流の田畑は干上がってしまいます。
当然、そこには利害の調整が必要となります。

そしてこの調整のためには、村を代表するリーダーの存在が不可欠です。
そしてそのリーダーたちが、村々の小領主として育っていきます。
さらにリーダー同士で結束し、もっと大きな邦をつくる。
さらに大きな新田を開拓する。

こうして広大な新田を保有する新領主が誕生します。
けれど、開発した新田は、そのままではやはり税がかかります。

そこで、新領主たちが何をしたかというと、国司や朝廷の貴族などに田畑を寄進し、税を免除してもらうようにはたらきかけました。
要するに、節税対策です。

こうして税を払わなくてよい農地が広がると、当然、そこには財力が生まれる。
そしてもっと広い無税の土地がほしくなる。
こうして育った封主のなかの、有名なのが天皇の血筋をひく、源氏や平家でした。

なかでも関東の豪族として勢力を持ったのが、平将門です。
彼は関東一円を統一し、「新皇」を名乗りました。
同時期、瀬戸内では藤原純友が大阪や淡路、愛媛を襲い、さらには太宰府まで襲って叛乱を起こします。

こうした武装集団に対抗するためには、朝廷も武装集団を雇わなければなりません。
乱はまもなく鎮圧されますが、こうして台頭したのが、中世の武士たちです。
中世の武士というのは、全員が領主さまです。
要するに、馬に乗って鎧を着ているのが武士で、そのまわりにいる歩兵たちは、武士とはいいません。
ただの「家人」です。

つまり、平安後期から鎌倉時代にかけての武士というのは、今風にいえば、農園の経営者たちで、彼らは自分の管理する農場を安堵してもらう代わりに、いざとなったら、戦いに身を投じた。
これが「御恩と奉公」です。
誤解を恐れずにいうなら、要するに農場安堵という利害関係によって形成されていたのが、御家人と呼ばれる武士たちであった、ということです。

こうした武士たちのなかで、はじめに頂点に立ったのが源氏です。
源氏の家は天皇家の血筋で、なかでも八幡太郎義家(源義家)は武勇の誉れ高く、前九年の役、後三年の役などではなばなしい武功をあげています。
ところがあまりに義家が人気があるため、逆に彼は朝廷の貴族たちから警戒されてしまいます。
おかげで、武勲を上げたのに、肝心の報酬をもらえなかった。

困った義家は、自分の領である河内(大阪)を、武勲のあった部下たちに報酬として分け与えました。
これが御恩となり、義家の人気はますます高まりました。

信用を得た義家のもとには、より多くの農園主たち(武士)が集まりました。
義家の勢力は拡大し、実力者となった義家は、次男の義親(よしちか)を対馬の守に任じます。
これがいけなかった。

義親が対馬で叛乱を起こしたのです。
朝廷は父親の義家に追討を命じますが、残念なことに義家は病のために死んでしまう。

で、義家に代わって対馬の義親を討ったのが、平正盛(清盛の祖父)です。
平氏は、この一件で力を得、瀬戸内の水軍を傘下におさめて、支那の南宋と貿易を始めました。

この南宋というのは、軍事力よりも経済を重視した国で、もっとも後年、あまりに軍事をないがしろにしたために、元に滅ぼされてしまうのですが、平清盛が日宋貿易をしていた頃は、いわば南宋の全盛期です。

交易は派手になり、平家一門は莫大な経済力を身に付けます。
そして朝廷に食い込み、ついには太政大臣にまでなってしまう。

ところが、宋との貿易は、やはり国内に古代と同じ問題をひき起こします。
国内に支那人、朝鮮人が多数流入し、国内の治安が悪化したのです。

民衆の生活が脅かされている一方で、平家一門が巨額な経済力で贅沢の限りをつくしている。
当然、全国から怨嗟の声が満ちてきます。

そうして起こったのが、源頼朝の挙兵です。
頼朝がなぜ京都ではなく、鎌倉に政権を開いたのか。
その理由は、京の都が、在日支那人、在日朝鮮人たちによって、どうにもならないくらいに汚染されていたから、と考えると、辻褄が合います。
頼朝は、朝廷の貴族となることよりも、武家の棟梁としての道を選んだのです。

こうして鎌倉幕府が開かれるのですが、鎌倉時代における武士というのは、御家人と呼ばれる馬に乗った騎馬武者、領主たち、いまでいえば農場主、もっというなら中小企業の社長さんたちであって、馬上の武士の周りにいる小物たちは、もちろん戦(いくさ)となれば一緒に働くけれど、武士ではなく、家人たちです。

そしてその武士たちと幕府とは、御恩と奉公の関係によって結ばれています。
所領の安堵と引き換えに、いざとなったら鎌倉幕府に応援に駆けつける(いざ鎌倉)という関係だったわけです。
ということは、武士たちの根底にあったのは、もちろん戦(いくさ)となれば、武勇の誉れ高く働きますが、どちらかというと所領の安堵という経済的利害得喪が主君と奉公人との関係の根底にあったということができます。

この鎌倉幕府には、大きな欠陥が内蔵されていました。
それが「田分け」です。
相続をあるいみ民主的な均等配分方式にしたため、世代がすすむと、領主たちが、その所有する土地が狭くなり、食えなってしまったのです。
結果、世代交替のたびに、生活はどんどん苦しくなり、ついに借金もぐれになってしまう。
どうにも生活がなりたたなくなる。

このため武士の中に、大きく二つの流れができてきます。
ひとつは、再び王政復古して、朝廷を中心とする世の中に戻そうという考え方。
もうひとつは、分割された所領を再び大きな所領に合併させて、再び大領主となっていこうとする方向です。

前者は朝廷と結びつきます。
古代のような、天皇を中心とした世の中にもどそうという方向に進んだのです。
ところが、肝心の朝廷が、いろいろあって南北に分裂してしまいます。
こうして南北朝時代がはじまる。

ここで彗星のごとく登場したのが、楠正成です。
楠正成は、天皇という国の「公」を代表する存在に、一命を賭し、これを守ろうとします。
そのため、鎌倉方の数万の軍勢に、たった500騎で戦いを挑む。
そこに利害得喪はありません。
「公」への忠と、そのために我が身を捧げようとする「義」だけがそこにあります。
要するに、ここに損得勘定を超えた「公」への忠義の観念が登場するわけです。

「忠」というのは、読んで字の如くで、我が心の中心に置くものです。
その中心に置くものが、自分だけがいい思いをしたいという個人の利得であったり我欲なら、それは我儘(わがまま)というものです。支那人、朝鮮人の行動原理と同じです。

ところが、個人の利得を超えて、よりおおきな「公」、つまり多くの民衆のために尽くすのは、「忠」です。
そして「忠」のために、我が身を捧げる、それが「義」です。
「義」というのは、羊に我と書きますが、古代において羊は神への生贄(いけにえ・捧げもの)です。
我が身を神への捧げものとして生贄にする。
それが「義」です。

つまり「忠義」というのは、我が身を、命さえも惜しまずに、より大きな「公」に捧げるという観念をあらわします。
その忠義の心が、七たび生まれ変わっても変わることがない。
これが「七生報国」です。

ここで、国のために自己の犠牲を厭わず、むしろ積極的に命を捧げるという、規範意識が生まれています。
それが後年、武士の「忠義」の道となり、武士道の根幹として育っていきます。

一方、楠正成などが、忠義の道へと進む一方で、相変わらず利益重視の勢力は、足利尊氏や新田義貞などの新興勢力のもとに結集し、足利幕府を構築します。

この足利幕府というのは、ある意味経済団体的側面を持っていて、三代将軍足利義満の時代には、早々と日明貿易(勘合貿易)をはじめています。

おかげで足利幕府は、たいへんな金持ち政権となるのですが、同時に支那人、朝鮮人が再び日本国内に入り込み、国内の治安の悪化します。
結果、戦乱の世が始まる。
戦国時代です。

この戦国時代、武士は、大きく変質します。
古代の武士は、今風にいえば、徴兵された軍人たちでした。
中世における武士は、農園主たちでした。
武士が、裕福で堂々として、強くてかっこよかった時代です。
で、戦国時代になると、誰でもかれでも刀や槍を持てば、その日から武士となった。

おかげで農民の出の羽柴秀吉が武士になり、大名に出世して、ついには関白太政大臣にまでなっています。
ところが、その秀吉は、全国的な刀狩りを行い、武士と、農工商民を完全に区別するようにします。
目的は、世の中を戦乱の世に戻さないようにするためです。

こうして武士の身分が固定される、新たな時代に移り変わります。
同時に、足利幕府が再開した海外交易は、徳川家の鎖国政策によって、停止となりました。
この鎖国というのは、物流に関しては、限定的開国です。
ただし、国の出入り口を絞ることによって、人の出入りを厳しく監視しました。
つまり、支那、朝鮮人たちが、好き放題日本に入ってくることを防いだのです。

おかげで江戸時代には、早々に国内治安が回復し、再び日本文化が熟成していきます。

そして身分を固定された武士たちは、あらたな規範として、藩という家に対する「忠義」の観念を深く持つようになりました。
鎌倉武士が裕福な領主たちだったのに対し、江戸武士は貧乏だけれど「忠義」という精神性、つまり武士道を基本に持つ人たちです。

ところで、江戸武士の忠義の対象が、上様(殿様)と思うなら、それは間違いです。
江戸時代に限らず、室町時代にも戦国時代にも、伝統的に続く武士の習慣として「主君押込」というのがあるのです。
主君が暗愚なら、お家のために、家老らが謀って、主君を座敷牢に閉じ込めたり、隠居させたりしています。
有名な上杉鷹山も、一時は主君押込騒動にあっています。

要するに日本社会では、古来、殿様は絶対君主ではないのです。
家(藩)という「集合体を代表する者」なのです。
家(藩)というのは、一般民衆も含む都道府県や市町村です。
その市町村民や、県民を庇護し守り育てるのが武士の仕事です。
殿様が暗愚で、そうした自覚を持たず、わがままで身勝手な存在であれば、その殿様を座敷牢に押込めてしまうのも、家臣たちの忠義と考えられていたのです。
ですから日本の殿様は、支那朝鮮の王族たちなどとは、根本的に異なる精神性を持つ存在です。

こうした忠義の観念は、江戸武士の基本的マインドとして、徳川300年の治世の中で、わが国武士に完全に定着します。

ところが、幕末になると大事件が起こる。
黒船来航にみられる欧米列強の脅威です。

これに対抗するためには、それまでの「藩」という名の家を超えた、もっと大きな、国としてのまとまり、つまり古代日本が行った「公」という概念のもとに、日本が一致協力して結束していかなければならない。

こうした必要から、明治にはいると、それまで武士だけの専売特許だった忠義の観念が、日本人の一般庶民にまで共通する観念として定着します。
それまで、藩への忠義だった忠義心が、今度は、国家への忠義へと、大きく広がりをもつようになったのです。

そして忠義の名のもとに結束した日本人は、国をひとつの家となし、国民が一致団結して、欧米に学ぶべきものは学び、国力をつけ、ついには、国土を焼土にしてまでも、欧米列強の植民地化圧力をを跳ね返しただけでなく、東亜諸国の植民地からの解放まで実現させています。
その日本の行動の根底にあった日本人の共通観念こそが、まさに「忠義」の観念であったわけです。

実はこの観念は、占領下に置かれたあとの現代日本にも、いまだ、色濃く、日本人に息づいています。
すなわち、より大きなもののために全力を尽くしてこれに尽くす。
たとえば国際ボランティアに参加する、被災地の復興ボランティアに赴くといえば、普通の日本人なら、「ああ、すごいなあ」と感心します。

つまり、より多くの人々のために尽くしていくこと、その対象が、より広く、大きな存在であるほど、その行動は偉大なこと、良いことだと考えられています。

ただし、です。
ひとつ気をつけなければならないことがあります。
忠義というのは、あくまで一般町民や農民の観念ではなく、もともとが「武士の観念」である、という点です。

なぜそのことが重要なのかというと、徒手空拳の丸裸では忠義は成立しないからです。
忠義は、実は、武力の裏返しなのです。
武力があって、はじめて忠義の観念が活きる。
実はそこがいちばん大事なところです。

なぜかというと、世の中には、どうしようもない恥知らずで法をおそれない獣のような人々がいるという事実があるからです。
自分の私欲のために他人を犠牲にしてもなんとも思わない。
そのような不埒な連中というのが、必ずいるのです。
なかには、不埒が国家を名乗っているケースさえもある。

福沢諭吉が、その著書の「学問のススメ」の中で、
「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」と書いたのは有名な話です。

けれど福沢諭吉は、その文のあとに、次の一文を続けています。
「およそ世の中に無知文盲の民ほど憐(あわ)れむべくまた悪(にく)むべきものはあらず。
智恵なきの極(きわ)みは、恥を知らざるに至り、
己(おの)が無智をもって貧窮に陥り飢寒に迫るときは、
己が身を罪せずして、
みだりに傍(かたわら)の富める人を怨み、
はなはだしきは徒党を結びて乱暴に及ぶことあり。
恥を知らざるとや言わん、
法を恐れずとや言わん」です。

そしてさらに、
「かかる愚民を支配するにはとても道理をもって諭(さと)すべき方便なければ、ただ威をもって畏(おど)すのみ。西洋の諺(ことわざ)に、愚民の上に苛(から)き政府ありとはこのことなり」と書いています。

要するに、福沢諭吉は、天は人の上にも、下にも人をつくらない、、、つまり人はみな本来、対等につきあうべきだといいながら、世の中には、そういう付き合いをしてはならないろくでもない獣人がいるから、そういう連中とは付き合うな!、と言っているわけです。

みんなのために、みんなとともに我が命さえも捧げてがんばろうという人や国家がある一方、性根の悪い者や国があります。
そういう人や国は、平気で他人や他国の善意を利用し、志を蹂躙し、安心、安全、利益、信用、伝統や有形無形の財産を平気で奪い取ります。
ですから「忠義」は、常にそうした獣人からの危険に対し、「武」が要求されるのです。
つまり、武と忠義は、紙の裏表の関係にある。
「武」のない「忠義」は、かえって獣人を跋扈(ばっこ)させ、世を貶める原因となってしまうのです。

しばらくまえに、言葉の意味もわからずに「世界と友愛」などとわかったような妄言を吐いた政治家がいましたが、こういうのを、平和ボケといいます。

日本国民が縄文の昔から育んできた、やさしい心、助け合いの心を大切にするには、その国民を守ろうとする日本国への忠義心が、その根底に必要なのです。

そして忠義と、武力は、常に紙の裏表です。
そして武力があることが、民の安心な暮らしを守ることになるのです。

悪党がはびこらず、人々が安心して暮らせるために警察があります。
警察がなければ、民度の低い獣人たちがはびこり、人の世が壊れてしまいます。

同様に、国富を奪おうとする強欲国家があれば、これへの対抗には軍隊が必要です。

「武」と「忠」、この二つは常に共存することで、民の安寧をはかりうるものなのだということを、私達はもういちど確認しなければならないように、私は思います。

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韓国/国民保導連盟事件 【ねずさんのひとりごとより転載】 [日本の隠された歴史]

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1712.html 

先日、FacebookではHさんからのシェアでご紹介したのですが、あらためてyahoo知恵袋から「国民保導連盟事件」をご紹介します。 
たいへんよくまとまっています。 
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1251448547 

要するにいま日本にいる在日韓国人というのは、 
朝鮮戦争のときに李承晩による韓国民の大虐殺事件の結果、済州島を中心に日本に難民となって逃げてきた朝鮮人の末裔です。 
要するに、不法入国してきた者達です。 

当時、日本政府はこの密入国してきた韓国人をもてあましました。 
ですから日本は、韓国に対し「まとめて逮捕して韓国政府に引き渡したい」と申し入れました。 
ところが韓国政府は、拒絶します。 
つまり、この時点で、在日韓国人は、韓国から棄てられたのです。 

日本政府はやむを得ず、虐殺からの逃れてきた朝鮮人達に「25年」の滞在許可を与えました。 

ところが25年後に日本から韓国に引き渡されれば、そのときに自分たちは韓国政府に殺されるかもしれないと考えた在日韓国棄民は、知恵を絞りました。 
そしてサンフランシスコ講和条約に「戦前から滞在している朝鮮人、台湾人には無条件で日本での永住権を与える」と定められていることを悪用して、 
「我々は戦前強制連行されてきた朝鮮人である」と名のり出したのです。 
要するに、最初から彼らは嘘ばかりなのです。 

======= 
やまと新聞の動画コラム「ねずさんの動画マガジン」 
http://www.yamatopress.com/co/pg146.html 

最新号 
第10回  主権のお話 
主権を持つということはどういうことか 


第11回  野蛮人とは 
人間と人間ではないものとは・・・・ 


====== 


一方、日本の民間人は、当時の日本人の生活が極めて貧しいものであったにも関わらず、ボートピープルとなっていた朝鮮人難民に対し、実に細やかに親切にしました。 
身ひとつで難民となってやってきた朝鮮人達を、風呂にいれてあげたり、家で匿って食べさせてあげたり、あるいは東京や東北に親戚がいるなどと聞けば、近隣のみんなで金を出し合って旅費を作ってあげたりしました。 
困っている人をみたらほっておけない。変わらぬ日本人の日本人らしい姿勢です。 

普通なら、世界中どこの国の民でもそれだけの恩義を受ければ、感謝の心を忘れないものです。 
ところが朝鮮人達には、そういう恩義を感じる心というものがない。 
日本人から受けた恩義を忘れ、日本国内で徒党を組み、日本人が武器を持たないのをいいことに、集団で土地をロープで囲んで土地を占拠横領し、バラックを建てていた家族を殺害してその土地を奪いました。 
それがいまある駅前の一等地のパチンコ店の敷地です。 

さらに白昼堂々、商店を襲って商品を根こそぎ奪ってこれを売ってお金に変え財を築きました。 
モノがない時代です。闇市で捌けば何でも売れた。 

さらにバスや列車に無銭で乗り込み、駅員を殴り倒し、網棚の荷物を外に放り投げ、日本人に対して集団で暴行を加えました。買い出しや遠い親戚に会うために乗車していた若い女性が、親兄弟の前で素裸にされ強姦された例は数知れません。 
そしてこれを咎めようとした警察官に対してさえ、集団で暴行を加え、殺害をくり返したのです。 

日本では、白バイによるスピード違反等の取締は行われません。 
なぜかというと、その昔、大型トラック輸送を牛耳った在日朝鮮人達が、追跡してきた白バイに、加減速をくり返して白バイが真後ろについたことを見計らって、急ブレーキをかけたのです。 
白バイ警官は、トラックの荷台の下に突っ込み、ヘルメットをかぶった生首が道路に飛びました。 
こうした事件が、50年代に多発しました。 
機動力を活かしたはずの白バイが、走行中の車両の取締に使われないのはそのためです。 

恩を仇で返す。これが嘘も隠しもない、韓国人の姿です。 

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【質問】 
韓国最大のタブーという動画を見たのですが、1951年に韓国軍が二十万人を虐殺した国民保導連盟事件というのがあったそうですね。 
詳しく教えてください。 

日本には朝鮮戦争で虐殺から逃げてきた避難民がたくさん来たといいます。 
日本最大の朝鮮人街大阪の猪飼野は済州島から逃げてきた「アカ」の人たちだといいますね。 
助けてもらったクセに、何故、日本に敵対するようなことをするのですか? 


【ベストアンサー】 
保導連盟事件は、共産主義を支持した人々が転向して国家に忠誠を誓うとした保導連盟というものがあり、それが朝鮮戦争でにわかに赤狩りをするようになった韓国政府にスパイ容疑での虐殺リストとして使われた事件です。 


保導連盟事件を中心に一連の事件で100万人以上が虐殺されたと言われています。 

虐殺の容疑はすべて共産主義のスパイということでしたが、実際にはちょっと疑わしい程度から、権力者(憲兵など)が気にくわないというだけでどんどん虐殺されるようになり、大規模な国家による国民虐殺に繋がりました。 

この虐殺は、第二次世界大戦で亡くなった朝鮮人の数よりも遙かに多かったので、これをごかますために、1970年代に軍事政権から民主主義大統領制に移行した際、日本と日本の占領制度を責めるというような方向でのガス抜きをするようになっていきました。 

保導連盟事件が韓国内で口にできるようになったのは1990年ごろからで、それまでは関係者が口を開く気配があるだけで連行される時代でした。 
(韓国では、戦前の日本にあった治安維持法と全く同じ法律である国家保安法があり、怪しいというだけで証拠が特になくとも逮捕も拷問も出来るように法整備されています) 

済州島のは、その流れのうちでも初期の事件で、4.3事件と呼ばれるおよそ7万人が虐殺された事件です。 
このときに逃げてきた人々が後の虐殺から逃れるために半島の人々を手引きしたことから、済州島出身者を中心として朝鮮人街が生まれているケースが多いのです。 

一昨年、公文書館から当時外務省と韓国政府の交わした文書が発見されているのですが、これによると日本政府はこの密入国してきた韓国人たちをもてあまし、まとめて逮捕して韓国政府に引き渡すと申し入れています。 

そして、韓国外務省はそれを拒絶している回答を残していました。 
つまり、二国間でもてあまされた政治棄民だったわけです。 

そして、日本政府は虐殺からの逃れてきた半島の人々に対して25年の滞在許可を与える決定を出します。 
これに過敏に反応した在日の人々は、知恵を絞った結果、 
「我々は戦前強制連行されてきた朝鮮人である」 
と名乗ることにしたのです。 

これは、25年後に引き渡されて殺されることが明白だったために、生き残るための知恵でした。 
日本は、サンフランシスコ平和条約で「戦前から滞在している朝鮮人・台湾人に無条件で永住権を与えること」と定められているためです。 

しかし、彼らには戦前から滞在していたと証明するものはありません(何せ、実際住んでいなかったのですから)。 

だから「強制連行なんだから、証拠や書類なんて我々が持っているわけがない! 
日本政府が無理矢理連れてきたのだから謝罪しろ!」と無理矢理な理屈でゴネたのです。 

日本政府としては、強制連行された朝鮮人は二百数十人しかいないことを知っていますから文句のひとつもつけたいところですが、敗戦後の国際世論の目が光っている状態で、「日本はサンフランシスコ平和条約にけちをつけた」と言って触れ回られたくないために、渋々黙認するようになったのです。 

彼らは日本政府を非難することで生き残る道を作ったので、その方針がそのまま引き継がれるようになっていきました。 

ウソも突き通せば本当になると思ったのでしょうが、世の中の情報化社会への進化のほうが早くて、薄まりかけていた彼らの真実も、現在では明るみに晒されているのでした。 

虐殺に関してはTRC(真実和解委員会)という団体が調査をしていますが、昨年、李明博大統領は彼らへの予算は配分しないことを宣言しており、韓国政府はこれ以上この問題を公にしたくないという態度をとっています。 
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「国民保導連盟事件」というのは、まさに朝鮮戦争の最中に起こった大規模虐殺事件です。 

当時韓国の初代大統領であった李承晩(りしょうばん)が、共産主義者から転向した者達を、再教育するためにと称して「国民保導連盟」という組織を作ったのです。 

要するにこの「国民保導連盟」に加入している韓国人たちは、全員が元アカ、つまり共産主義者もしくはその家族だったわけで、そういう人達に、おいしいことを言って連盟に加盟させ、人数がまとまったところで、李承晩は、その加盟員を、韓国軍と韓国警察に命じて、全員皆殺しにしたわけです。 

この事件について、李承晩大統領が失脚した1960年の四月革命直後に、韓国の全国血虐殺者遺族会が、遺族たちの申告をもとに報告書を作成しています。 
その報告書によると、虐殺された人数は114万人であったとされています。 

また、韓国政府の「真実・和解のための過去史整理委員会(ko)」も、朝鮮戦争の初期に韓国政府が、子供を含む少なくとも10万人以上の人々を殺害し、排水溝や炭鉱や海に遺棄したことを認めています。 

公開された米軍の機密書類には、この虐殺時に米軍将校が立会ったことや、虐殺を承認した事実などの詳細の記録があり、また英国軍の役人や、豪州人による目撃記録もあります。 

つまり、韓国軍による自国民の大量虐殺が行われたことは、まぎれもない事実なのです。 

韓国政府は、2012年の現代に至っても、自国にあったこの歴史を国民に隠蔽し続けています。 
それどころか、大量虐殺の遺体写真などを、あたかも日本軍による蛮行であったかのように偽装し、国民をたぶらかし続けています。 

また一方、この事件を逃れて難民として日本に不法入国してきたのが、いま日本にいる在日朝鮮人たちです。 
日本は、彼らを保護し様々な恩恵を与え続けてきましたが、彼らはそれをいいことに、日本社会を食い物にし続けてきました。 
そして戦後に日本に密航してきた不法入国者であるにも関わらず、自分たちは戦前に日本に強制連行されたのだと嘘を尽き続けています。 

人を騙すことが平気な在日韓国人と、人と信頼し合うことを大切にする日本人。 
日本人はいいように利用され続けてきたのが「国民保導連盟事件」以後の60年です。 

歳月経ち、いまでは在日の三代目が社会人となっています。 
普通、三代経てば、だいたい郷に入って郷に従うようになる。 
けれど在日韓国人というのは、支那人と同じで、どこまでも郷に入って郷に従わない民族です。 

いろいろな問題はあろうかと思いますが、私は、少なくとも在日韓国人の通名だけは一切認めず、仮に帰化していたとしても、韓国系日本人、朝鮮系日本人と、ちゃんとわかるように区別ができるように、法制度を変えるべきだと思っています。 

そうでなければ、日本人の安全で安心な生活は担保できない。 
今日は、そのことを強く申上げたいと思います。
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新たな武士の台頭 【「ねずさんの ひとりごと」より転載】 [日本の隠された歴史]

以下、ねずさんの ひとりごと」blogより転載
http://nezu621.blog7.fc2.com/



新たな武士の台頭

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1715.html

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「武士」と書いて「もののふ」とも読みます。
「もののふ」というのは「物部」で、「もののべ」とも読みます。
「もの」というのは、「えもの」つまり武器を指します。
ですから「物部」は、武器を扱う氏、つまり武門の長であったわけです。

時代が下って奈良時代になると、菅野真道らが編纂した延暦16(797)年の「続日本紀」の巻八に、「文人武士は国家の重んずる所」という一文が出てきます。
これが我が国における「武士」という言葉の初出になります。

太宰府における防人や、貴族の持つ荘園の警固兵など、古代における武士は、いまの時代にあてはめれば国軍の兵士や、民間の警備員のような役割の者達だったといえます。

ところが平安時代後期になると、貴族による全国的な支配秩序が崩れ、それに代わる私的な権力を持つ者達が現れました。
もともと、貴族の持つ荘園は、貴族や大寺院が自分たちの力で開いたものではなく、地方の有力農民などが開墾した農地が寄進されてできたものです。

従って名目上所有者は貴族ですが、実態は有力農民たちが管理運営していたものでした。
農地は平安時代を通じて、さらに開墾されていきますが、そうした農地は必ずしも貴族や大寺院に寄進されず、農民達が自分たちの手で守り抜くものとなっていきます。

 はじめのうちは、土地は開墾すればいくらでもあるものでした。
けれど時代が進むと、当時の技術で開墾できるところは開墾しつくしてしまい、点在していた農地は、その境界を他の農地と接するようになります。

すると、治水利水権や、土地の境界線をめぐるもめごとが起こる。
貴族や大寺院の土地ならば、もめごとの調停は、貴族や大寺院側が行うけれど、それが私田だと、そうはいきません。
自分たちの力で解決しなければならない。

そこで農民たちは互いに結束して武装し、半農半武の武士団を形成しました。
律外の民としての武士のはじまりです。
彼らは自分たちの領地を守るために、一所懸命となって働きました。
食うか食われるかの戦いの中で、彼らは勇敢であることを誇り、卑怯を軽蔑し、武士の誉れを大事にする存在となっていきました。

そしてより大きな保護を得るために朝廷の武士(いまでいったら国軍)である源氏、平氏という大きな「家」に帰属し、そこで本領を安堵してもらうかわりに、いざというときには一命を投げ打って働く奉公をする御家人、つまりその一家に所属する集団となっていきました。
新たな「武士」の誕生です。

つまり、言葉は同じ「武士」でも、鎌倉以前の「武士」と、鎌倉以降の「武士」では、その意味合いがまるで異なるのです。
鎌倉以前にも武士はいました。
防人とか北面の武士などといった存在です。
けれど、それらは、いまで言ったら国の軍隊であり、地方公共団体の警察官のような存在です。

ところが鎌倉以降の武士は、そうした公的軍人や警察官等と異なり、庶民を代表して立ち上がった人達です。
つまり「領主」です。
刀を持てば武士というわけではありません。
また領主とともに戦いに出向く領民は郎党であって武士とは一線を画した存在です。

江戸時代、「鎌倉武士のようだ」という言葉は、武士に対する最上級の褒め言葉とされていました。
その鎌倉武士が尊敬されたのは、彼らが農地共同体の小領主であり、かつ、勇敢で領民思いであり、誰からも尊敬を勝ち得るだけの存在となっていたからです。

そしてそういう武士達が、元寇という外圧を機に、国を守るために敢然と立ち上がり、蒙古の大軍を跳ね返して、日本という国を守り抜いた。
そのことが結果として、本領を安堵するだけでなく、日本を護る、すなわち「公」のために忠義をまっとうする、つまりより大きな正義のために生命をも投げ打つ「武士」として、我が国に完全にその存在を定着させていったわけです。

このことは、民の側から見た武士達が、私利私欲ではなく、「公」という概念に仕える公明正大な存在となっていったということも同時に示しています。

ところが、日本を二分する武士勢力である平家は、源氏によって討たれました。
なぜでしょう。

平家は、伊勢平氏の棟梁であった平忠盛の長男清盛が、保元の乱、平治の乱で軍功をたて、武士としては初めて太政大臣に任ぜられたとされています。
軍功があって太政大臣にまで出世したのなら、武家の棟梁として申し分なしです。
何も「平家を討とう」などということにはなりません。

にもかかわらず清盛が民の顰蹙を買い、結果として家を滅ぼす原因となったのは、清盛が朝廷に食い込んでいったことそのものと、大きな因果関係があるといわれています。

それが何かと言うと、なるほど清盛が乱に勝ち抜いたことは事実なのですが、その際に彼は西日本の水軍を傘下におさめていたのです。
当時の水軍というのは、国際私貿易の担い手でした。
支那や朝鮮に船を繰り出し、私的交易を図って巨富を得ていたのです。

宝船の絵といえば、七福神が乗っかっていて、船には金銀財宝や米俵が満載されている図が描かれていますが、まさに国際貿易は、海難事故というリスクはあったものの、成功して帰還すれば、巨利を得ることができました。

少し時代は前後しますが、宝徳年間に明に渡った商人の楠葉西忍の記録によれば、明で250文で買った絹糸が、日本に持って来ると5貫文(5000文)の値で売れ、日本で10貫文で仕入れた銅が、明で4050貫文で売れたそうです。
刀剣類や漆器などは、やはり2〜30倍の値段で売れたと書かれています。
つまり、私貿易は、それだけボロ儲けできる商売だったわけです。

そうした利権を手中に収めた清盛は、朝廷に金をバラまき、地位を上昇させました。
なにせ時代は平安後期です。
律令制度の令田制度は崩れ、朝廷や貴族達の税収も減っていた。
そこへ登場した清盛は、まさにカネのなる木をもって、政治権力を買い取っていったわけです。

今風にいえば、清盛の治世は、まさに経済最優先の治世であったということができるかもしれません。
こうして政治権力を得た清盛は、娘の徳子を高倉天皇に入内させ「平氏にあらずんば人にあらず」とまで言われる時代を築いたわけです。

要するに清盛の力の源泉は、国際交易によって得た財力にあります。
従って清盛は、政界に力を持てば持つほど、ますますその財力を強化する必要に迫られます。
そしてそのために、清盛は、ますます国際交易に力を入れました。

このことは、交易の相手国であった支那、朝鮮との国交の親交化にもつながります。
当初は、商売のための財物が日本に流入するだけだったものが、次第に人的交流も強化されていきます。
はじめのうちは、それなりの人格者や高僧、あるいは技術職人などが渡来しますが、年月を重ねるにつれ、戦乱の続く大陸から難を逃れ、親戚を頼って日本に渡来する者たちも増えていきます。

私は、支那人や朝鮮族が、必ずしも悪人ばかりとはいいませんし、中には本当に尊敬できる人格者も数多くいるし、また普通の生活をし、郷に入ったら郷に従うまっとうな人達が大半を占めるということは、否定するつもりはありません。
けれど、人肉を食し、人を殺したり集団で弱い者、女性などをかどわかし、暴行したりする不逞な者達がそうした渡来人の中に数多く混じっていたであろうことも、これまた否定できない事実です。

結果として、それまでの平安日本の社会ではあり得ないような悲惨で残酷な事件が、国内で頻発する。
農作物や家畜が、半ば公然と盗まれる。
そうした治安の悪化は、民の怒りとなって蓄積していきます。

とりわけ東国の武士達からみれば、流れ者が乱入してきて治安を乱す。その治安の乱れ(犯罪行為)は、そのまま本領を安堵すべき武士の不名誉となっていきます。

そうした世の中の乱れを産んだ平家には、当然に民の怨嗟の声が充満してくる。
そしてその声は、はじめは小さかったものが、次第に世論となり、「平家討つべし」の大合唱が起こりはじめます。

そして一部の武士達が、源氏の嫡流である源頼朝を担ぎ上げ、中央政府を仕切る清盛に対して反乱を起こす。
はじめは小さな勢力でしかない頼朝派は、乱をすぐに鎮圧されてしまうけれど、「頼朝立つ!」の報は、東国を駆け巡り、ついには平家を滅ぼし、鎌倉政権の樹立に至っています。

こうした一連の流れは、似たようなケースが、我が国の歴史には度々登場します。
そしてそのことが、我が国の歴史が、だいたい150年から200年単位で、開国と鎖国をくり返す歴史となっています。

日本は、明治の開国から、今年で144年です。
開国政策は、我が国に江戸日本では考えられなかったような富をもたらした一方、大東亜戦争の焼け野原を招き、そして戦後復興という、未曾有の経済成長をもたらしました。

けれどその一方で、日本人の常識、経済的自己の利益よりも公に尽くす、あるいは人と人とが仲良く暮らす、互いに信頼を基礎におく安定した社会構造を大きく破壊してきました。
そして昨今では、日本的「和」よりも目先の利権を最優先する政党が、政権与党に座るという事態まで招いてしまっています。

そしてそのことで、日本社会は、わずか三年で富を海外に流出させたのみならず、人々の生活は苦しくなり、巷には政権与党に対する怨嗟の声が満ちるという情況になってきています。
そしてその一方で、民の幸福や日本社会の安定を願う、保守主義者ないし日本主義者が、大きく成長してきています。

思うに、いま立ち上がりつつある保守勢力、あるいは日本主義者、日本派、名前はいろいろな呼び方になっているけれど、その日本派の人々は、いわばかつて、民の私権を守るために立ち上がり、公に尽くすことを最大の使命と考え、我が国を守るために、自発的に立ち上がった人達です。
ということは、いま目覚め、立ち上がりつつある人々は、かつて領民を守るために立ち上がった鎌倉武士同様の、現代版「武士」といえる人達といえるのではないでしょうか。

もちろん社会構造が違います。
ですから、現代版の「武士」たちは、刀を腰に二本差すようなことはしません。
けれど、その思想と行動は、常に日本人としての日本の民とともにある。
それが武士です。

そして、つい最近まではバラバラに行動していたその現代版「武士」達は、いま安倍総裁という棟梁を得て、新たな日本つくりの段階にはいろうとしています。
新しい時代のはじまりです。

歴史は繰り返すといいます。
当面は日本は大乱となるかもしれません。
けれど、それは新たな日本を築くための産みの苦しみなのです。

私達は、誇りある日本の明日を信じて、いま、立ち上がったのです。
勝ちましょう! 衆院選!!


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「勝てば官軍、負ければ賊軍」最初に舵取りを間違えた明治維新を見直す【転載】 [日本の隠された歴史]




http://www.funaiyukio.com/ikedaseiji/index_1206.asp より転載

このページは、元幹部陸上自衛官で、2010年の12月に40年間に及ぶ自衛官生活にピリオドを打った池田整治さんによるコラムページです。池田さんが自衛官在任中に書かれた著書『マインドコントロール』(ビジネス社)は大変好評です。このコラムでは主に、“社会の真実”“家族愛”“自然との共生”をテーマにお届けします。

ガイアのつぶやき・・・その2

 「もう時間がありません。最後のチャンスのヒントを与えます。あなた方が最初に舵取りを間違えた明治維新を見直すことです。」

 勝てば官軍、負ければ賊軍。
 明治維新から語られてきたこの言葉の真の意味をどれくらいの日本人が自覚してきたでしょうか。
 今では江戸時代の市民社会もかなり見直され、自然と一体化した、士農工商の身分に関係ない共生の「パラダイス社会」だったことも徐々に理解されてきました。その象徴として、江戸市民が身につけていた「江戸仕(思)草」も紹介されてきています。傘かしげ、肩引き、お心肥やし、こぶし腰浮かせ、時泥棒などがその代表的なものです。でもそれは、「形」としてかろうじて伝え残っているもので、大切なことは、その根っこにある、自然も含む一切のものとの共生の生き方、つまり日本人本来の「こころ」「生き様」なのです。これを今では「ヤマトごころ」と言っているわけです。
 つまり江戸時代は、社会を構成する「人づくり」が、講や寺子屋あるいは寄り合い等でシステム的にもキチンと行われていたということです。江戸仕(思)草では、「3才こころ、6才躾、9才言葉、12で文(ふみ)、15理(ことわり)で末決まる」といわれていました。
 言葉というのは、あいさつだけでなく、大人と同様の世辞が自分の言葉でキチンと言えることをいいます。つまり、「おはようございます」に加え、「本日はお暑うございますね」というような人間関係を築く大人の会話力を身につけることを意味します。
 このために幼少時から、意味はわからなくとも古典を丸暗記させることを徹底したわけです。この「日本語(やまとことば)の語彙力」が、その後の学問、教養としてだけでなく、人間力養成の基盤となっていったわけです。
 12才文(ふみ)というのは、12才になれば、両親の代わりに代筆で手紙をかけるということです。さらに15才理(ことわり)というのは、世の中の仕組みをしっかり理解して、店の番台を親の代わりに勤められるようになることなのです。

 このようにして心豊かに何世代も積み重ねられて育まれた50万の市民が暮らす江戸は、まさに人間性豊かで、心温まるパラダイス社会だったに違いありません。ちなみに江戸100万人の残り50万のほとんどは、参勤交代でやってくるお登りの地方侍たちです。歴史的に文書で残っているのは、この武士たちの、いわゆる公的な書物であり、市民の文化は文書として残されなかったのです。
 それを唯一、絵で見せて残しているのが浮世絵と言えます。ところが明治政府は、この江戸を否定して成り立っているのですから、なんと江戸仕草そのものさえも禁止してきたのです。
 この為、戦後に日本を統治したGHQがこの江戸仕草を「解放」したときに、秘かに江戸仕草を伝えていた人たちがお礼にGHQを訪れたほどです。こういう面までも考えてGHQは、二重、三重にマインドコントロールを戦後の日本社会にかけていったわけです。


 ところで、江戸末期に日本を訪れた西欧人たちは、江戸の市民生活を見て、「この世のパラダイス」と手記に書き残したり、母国の家族等に手紙で送っています。彼らが江戸社会をどう感じたのか、訪れた日にち順に追体験的に見ていきましょう。
 もちろん、彼らは旅行の物見遊山で来たわけではありません。欧州を起点とする白人による世界の植民地化前線の東回りと西回りが巡り会う最終局面として、黄金の国・ジパングの植民地化が究極の目的でした。もっとも、彼らも世界金融支配体制者たちに使われる駒に過ぎませんが。
 彼らは航海上、日本に来る前に中国に立ち寄ります。その中国を「ウジ虫を知らずに踏んでしまった気色の悪い気持ち」であると書いています。居住区は汚いし、子どもたちは「ギブ・ミー・マネー」であり、「売られている製品は全てコピー製品であり、吐き気をもよおし、二度と来たくない」、とまで母国の母親に書いた随行員もいます。そこからさらに極東の地である日本に行くわけですから、あまり期待はしなかったと思われます。
 ところが日本に一歩踏み込んだ途端に大讃辞に変わります。まず、船からみる国土が美しい。緑豊かな野山に、綺麗に整備された段々畑や棚田がとけこんでいます。これまでの世界のどこでも見たこともない自然と人工物がシンクロした絵画そのものの立体風景です。
 下田あるいは横浜の寒村に着くと、浮世絵で見た色鮮やかな着物を着た健康そうな子どもたちが、「うちにおいでよ~」と手を引きます。その農家に行って見ると、士農工商で一番貧しいはずの農家は、四辺が綺麗に生け垣で仕切られ、その中に小さないながらも見事な日本庭園と色鮮やかな鯉が泳ぐ池があります。家に入れば、土間があり、床の間には綺麗な掛け軸がかけられています。
 当時の欧州では、彼らの階級は「農奴」であり、文字も書けず、何世代も藁葺きの中で雑魚寝生活でした。つまり、世界でもっとも裕福な農民が暮らす国、それが日本だったのです。
 個人宅にもお風呂があり、さらに出される食事にビックリです。なんと陶磁器が使われています。他の国では、このような食器は貴族以上でないと使っていません。しかも海の幸、山の幸に溢れ、自然の風味を最高に活かした世界最高の美味しい健康食です。特に、欧米人さえ見たこともない醤油や味噌など健康に素晴らしい発酵食品を使っています。
 帰り際には、農民であるはずの彼らが書いた掛け軸までプレゼントされます。最下級の農民が芸術的な書道が出来ることに最後までビックリ仰天です。せめてお礼にペンでもと渡そうとすると、頑なに受け取りません。
 そうなのです。これが日本の「おもてなし」であり、日本各地のどこでも日常から旅人たちに振る舞われていた日本人の慣習そのものだったのです。ちなみに私が小さい頃の四国伊予の実家では、このおもてなしをお遍路さんたちに行っていました。

 彼らは、その後陸路で江戸に向かうのですが、街道が綺麗に整備されていることにも驚きます。キチンと歩ける道路が整備されているだけでも、世界広しといえども当時は日本しかありません。しかも街道沿いに旅人のための日陰を提供する松などの樹木が植えられています。さらに一定間隔で宿場町が整備され、飛脚や駕籠(かご)、さらに宿や飲食店なども利用できます。街道がわざと曲がっているかと思えば、遠景に富士山、近景にお城というふうに、ビューポイントを設けるなどの情緒溢れる道造り、町造りを行っています。

 さらに江戸に着くと、まさに人類史上初の大公園都市です。
 中央に江戸城を中心とした大公園があります。それを核心に300の武家屋敷の大公園があり、さらにそのまわりには1500もの寺院等の中公園が配置されています。市民の小さな家にも庭があります。鳥瞰図的に見れば、まさに地球唯一の地上の楽園自然都市です。町造りも合理的にしっかりしていて、大通りの門戸を占めると外部からの侵入は困難で、治安上も安心できます。
 行き交う人々は、江戸仕草の体現者であり、挨拶や話している様子も明るく、そこにいるだけで心温まります。野の鳥さえも人の肩に留まってさえずっています。一番気性の荒々しいと思われる船乗りが集まる船着き場に行ってみると、聞こえてくる言葉は、「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」ばかり。
 彼らは、日本人が自分たちのことを南「蛮」人という意味がよくわかったと手記にも書いています。
 実は、現在のUCLA(カルフォルニア大学ロサンゼルス校)では、国際関係論で、「19世紀のパリは、江戸を見習って造った」と教えているのです。
 まさに、ゴッホが日本の浮世絵から江戸を学び、そこからヤパン・インプレッション(福沢諭吉が明治政府の意を汲んで「印象派」と意訳。実際は、日本浮世絵派あるいは「日本主義」)が生まれ、世界の市民が解放されて行ったのです。そういう意味でも、日本は世界の「雛形」だったのです。


 江戸の市民生活の素晴らしさのエピソードとして完全リサイクル有機農法を紹介します。
 現代の都会生活でもアパートやマンションの集合住宅が多いように、江戸でも「長屋」がありました。大家が50両払って代官から営業権を購入します。
 家賃はいりません。さらに「老人」や「病人」が入居人として歓迎されたと言います。住人の仕事は「用をたす」ことだったからです。
 ちなみに、当時、上下水道が完備していたのも、世界で江戸だけです。その下水道に、「トイレ」の排泄物を流すことは厳禁です。それだけ、衛生管理観念も進んでいました。下水道にトイレの排泄物を流すようになったのは、「文明開化」した明治維新以降なのです。欧米化が日本文明を劣化させた一つの例証です。
 長屋で溜められた「うんち」は、郊外の農家が買い取りに来ます。その売り上げが、現代価格で年1000万円ほどになったようです。つまり、それだけ現金を出せた農民も豊かだったのです。
 農家では、それを肥だめで微生物利用による完全有機肥料として活用しました。世界で初の完全有機リサイクル農法だったわけです。老人や病人は、消化力が落ちているので、排泄物の中に「有効成分」が多く、貴重な存在として大事にされたわけです。正月などには、わが子のように住人に大家さんがお餅などを配ったのです。

 このような市民のパラダイス国家を運営していたのが、侍たちです。彼らは、武道に励みながら、市民のために誠実にこの国を切り盛りしていました。なにせ300諸藩も、市民も一切江戸幕府に税金を納める必要はありませんでした。
 完璧な地方自治で、経済的にも独立し、幕府も各藩も、自己責任でキチンと運営しなければならなかったのです。組織・制度上からも為政者たちが、エゴの「利権」に走ることなど出来なかったのです。
 しかも彼らは、生まれたときから15才で元服するまで、「武士としてのこころ、躾、言葉、文、理」を、市民以上に藩校などで、専門の講師たちに徹底して訓育されました。優秀なものは、身分にかかわらず、他の藩校や幕府の昌平校などに藩費で留学もできました。この中には、商人や農民の優秀な子どもも選抜されていました。武士になれたのです。このように生まれたときから高度の人間教育を受け、いざというときは命さえ惜しまない世界最高の利他を体現する為政者、それが江戸時代の侍=武士だったのです。
 彼らが存在する限り、これまで植民地化した国々のように、武力で制圧することもできません。軍艦10隻持ってきても、上陸できるのはせいぜい数百人です。万単位の武士の誠の中では身動きもできません。


 この日本をいかに植民地化、つまり金融支配するか。
 それには、無私の「武士道精神」「ヤマトごころ」を徹底的に排除し、個人の「利権」を基礎にする国造りに変えるしかありません。このためには、武士階級、端的にその象徴の「江戸」を完全否定しなければなりません。
 そのために、武士(薩長)でもって武士(江戸)を排除する。これが明治維新の真実です。
 こうして見ると、明治政府が極端な欧米化政策をとった本当の理由が見えてくると思います。彼らは世界金融支配者の裏からの支援を受けて、政権に就きました。世界が称賛してモデルとした江戸のパラダイス社会を徹底して否定するしか彼らの生きる道はなかったのです。
 西郷隆盛と勝海舟の会談で無血江戸入城となったことになっていますが、それはあくまで勝った方の官軍史観でしかありません。実際には、勝海舟は江戸の東側の裏戸をあけて江戸市民を避難させました。店には番頭一人置いて戸を閉めていたと言われています。江戸の周辺は、当時は森林に覆われていました。この森林を利用して逃げ延びたのです。何故なら、「江戸仕草」の体現者たちは、新政府軍の武士たちに老若男女にかかわらず、わかった時点で斬り殺されていったからです。維新以降もこの殺戮は続きました。この「史実」は、明治維新の政府の流れを汲む日本では、未だ歴史のタブーとなっています。
 引き続く、東北での戊申戦争も真実は異常です。震災後、いわき市に講演に行きましたが、東北では、戦争と言えば、大東亜戦争ではなく、いまだに戊辰戦争を指します。なぜでしょうか?
 ヤマトごころ、武士道で育った日本人は、喩(たと)えまがい物の錦の御旗とわかっていても、弓矢を引くことはありません。東北の武士たち、つまり15歳以上の男子は、城に集まり武装解除の準備をしていました。街には姉妹や母、祖母たちしか残っていません。そこに上陸してきた新政府軍たちは、こともあろうに残っていた子女を強姦・陵辱・殺害そして火を放ち廃墟として行ったのです。
 この惨状を知り、死を賭して戦わざれば、もはや武士とは言えません。こうして東北の真の武士たちは、最後の15才の白虎隊まで戦って散華していったのです。この「史実」も日本ではタブーとなっています。しかし、地元の人々のこころを消すことはできません。
 彼ら「官軍」が江戸に帰り、勝った勝ったとはしゃぐのを見て江戸市民は、
 「これで日本も500年とは言わないが、300年は時代を(つまり戦国時代に)遡(さかのぼ)ってしまった。彼らは三代もしないうちに、この国をイギリスやアメリカに経済的に売ってしまうだろう」と影で嘆いていたのです。
 三代後とは、まさに現代です。完璧に世界金融支配体制の忠犬ポチ公として、国民の健康と安全とを犠牲にして、彼らに国民が背に汗して稼いだ日本円(税)を貢ぐ現代の為政者たちの姿を、当時の江戸仕草の体現者たちは予言していたのです。


 ちなみに150年前の浮世絵に、現在のスカイツリーと同じ場所・高さのタワーが描かれています。新聞でも江戸時代の予言と紹介されました。私には、友人の光明氏のような当時の霊能者が、未来の日本を見て、神を憚(はばか)らぬバベルの塔として警告しているとしか思えません。亀戸という地名は、洲が亀の甲羅のようにあるから付けられた地名です。そんな海である砂州の埋め立て地に、世界最高の高層建築物を建てるなど、東京直下型などの地震の想定内として真剣に考えたのでしょうか?
 いずれにせよ、「征服者」であった薩長主体の明治政府は、徹底して江戸を否定しました。世界の自由民主化の原点であった浮世絵の歌川派さえ解消させたのです。つまり、日本のまごころ、ヤマトごころの否定でした。それ故、極端な欧米主義に立脚するしかなかったのです。こうして、欧米人が認めていた「世界のパラダイス・江戸日本社会」を「自己否定」したのです。

 つまり出発当初から進路を誤ってしまったのです。この明治維新の暗黒面をキチンと反省せずして、日本の再生もありえないでしょう。最近でも、明治維新は素晴らしかったが、戦後のGHQの占領政策で日本はダメになった、ときめつけています。これでは、またまた元の木阿弥になってしまいます。
 明治維新の反省が全くないから、ガイアの今回の警告もまったく無視して、世界金融支配体制者に影で操られた明治政府の構造と意図を引き継ぐ現為政者たちが、引き続き原発再稼働の滅びの道をまっしぐらに進んでいるのです。彼らを見ていると、後ろから何ものかに脅されているかのように、既存の原発等利権の維持拡大に顔を暗く引きつらせながら邁進しています。それが世界金融支配体制の中の核エネルギー部門であることは論を待ちません。

 いずれにせよ、とても今生の本来の目的である霊性を向上し、この地球文明を未来の子どもたちのために、5次元社会へ責任持って導くと自覚しているようには見えません。もう彼らの好きなままにさせてはいけません。原発無き、本来の宇宙エネルギーの道へ舵をいますぐ切り替えなければなりません。
 ガイアのレッドカードが目前に迫っています。それは、東海・東南海・南海連動型大地震、それに引き続く富士山噴火、そして壊滅的な東京直下型巨大地震となって現れるでしょう。
 雛形の日本がこの惨状ですから、世界はさらに、巨大火山噴火、核戦争、ウィルス感染等々で現代文明そのものの破滅へとなりかねないでしょう。

 再度問います。
 今我々は、滅びの道を歩んでいるのでしょうか。永久(とわ)の道を歩んでいるのでしょうか。あるいは、まだ引き返せる位置でしょうか。
 3.11フクシマをガイアの警告と認識できたのでしょうか?

 いえ、あなたはどの道を歩みたいのですか?


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